十五年もの間、男だと思っていたクリストファーが女だった。
その事を知った夜、グリゴリは眠る気になれず、ベッドの上に腰掛けて、毛布を被り、長い間じっとしていた。 フョードルは部屋にいない。 マァムブまで付いてきていた事は確認している。 だが、自室まで強引に連れて来る気にはならなかったし、息子のためにも、一緒にいるべきではないと思った。 いざ一人になってみると、怒りは鳴りを潜め、ただ重苦しい気持ちだけが残る。 全てが何かの勘違いであって欲しい気持ちと、そんな都合のいい事など存在しないという気持ちが、波のように交互にやってくる。 そんな波間に漂う事自体がただの現実逃避であって、何の生産性も無い。 それが分かっていても、駄々っ子のように、嫌だ、としか考える事ができない。 何度目かの溜息を吐く。 どのくらい時間が経っただろう。 もう朝になっているかもしれない。 正面にある、部屋のドアを見つめる。 グリゴリは自室に勝手に入られる事を好まない。 自分の領域に、他人が入るのが嫌なのだ。 以前部屋に勝手に入ってきたクリストファーを殴った事もあった。 万が一の時を想定して渡した合鍵で、クリストファーは大した用事でもないのに侵入してきた。 有事の際に、仕方がないのなら自分の領域に入ってもいい、というつもりで渡した鍵を気楽に使われた。 という事は、クリストファーが「自分は信頼されている」と驕っている気がしてしまったのだ。 自分はクリストファーを、ある程度信頼しているのだろう、とは思う。 だがそれは気を許した事にはならない。 あくまで、クリストファーは許せない相手であり、好ましい相手ではない。 不意に、がちゃり、と音がした。 ノックは無い。 ドアを見る。 この部屋の鍵を持っているのは、一人しかいない。 扉は、控えめにゆっくりと開いた。 「グリゴリ、起きてますか……?」 クリストファーは以前の事を覚えていないかのように部屋に入る。 ずっと項垂れていたグリゴリは、クリストファーの言葉に、少しだけ顔を上げる。 目が合う。 その途端、クリストファーは足を止める。 彼女は何も言わず、ただ、固まったかのように動かない。 何も咎めた訳ではない。 ただ、見ただけ。 ここまでクリストファーを怯えさせるものは何だろう。 今までの行いの気もするし、罪悪感だと思いたい気持ちもある。 そのままじっと見つめていると、クリストファーの視線は、いつものように下を向いてしまった。 「クリフ、何か用事があったんじゃないのか?」 グリゴリにしては珍しい、機嫌の良さも悪さも無い、込められた感情を何も感じない声音。 「あっ……」 クリストファーは顔を上げる。 だが、しばらく答えを探すように視線を泳がせ、再び下を向く。 「……い、いえ。なんでもありませんでした」 「なんでもない?」 じわり、とグリゴリの声に感情がにじむ。 恐らくクリストファーが一番聞きなれているであろう声。 不愉快さを隠そうとしない声。 グリゴリは乱暴に被っていた毛布を投げ捨てる。 ベッドを下りて、大きく足音を立てクリストファーの目前で止まる。 胸倉を掴みあげる。 「なんでもないはずが無いだろう! お前はいくらでも言うべき事があるはずだ!!」 クリストファーは、その言葉にも答えない。 いつものように、ただ、暴力に耐えるために、視線をひたすら床へ落とす。 グリゴリが欲しかった言葉は、何も与えられる事は無かった。 そう、クリストファーからの言葉が欲しかったのだ。 一言、謝ってくれれば、事情があったと言ってくれれば、勘違いだったのだと、言ってくれれば、良かったのに。 「用も無く部屋に入るなと言ったのを忘れたのか?」 掴んだ胸倉を持ち上げる。 いつものように、その華奢な体は簡単に持ち上がった。 「用があったんだろう! それとも、罰を受けに来たのか!?」 クリストファーが自分に逆らわないのは、仕事だからではなく、罰を受けるためであって欲しい。 そう思っていた。 罰を受け入れるのが、クリストファーの贖罪であると。 しかし、どこかでそれを否定して欲しいとも思っていた。 そうすれば、今度こそ、クリストファーに失望できる気がして。 「そう、なのかも……」 小さく漏れた言葉。 目を見開く。 言った当の本人も、驚いたように顔を上げる。 また、目が合った。 「へぇ」 クリストファーをベッドに投げ捨てる。 「そんな殊勝な事が言えるんだな」 上着を脱ぎ、クリストファーに圧し掛かる。 ネクタイを乱暴に毟り取り、力任せにシャツを引きちぎる。 帰りに人目を気にするように。 「女なら、女なりの罰を受けてもらおうか」 クリストファーは、呆けたように服の機能を果たさない布を眺める。 「えっ……グリ、ゴリ……」 困惑はそう続かない。 グリゴリを睨み、問う。 「……正気、ですか?グリゴリ」 「お前は、どういう時に俺が正気だと思う?」 薄く笑う。 「俺はいつでも正気のつもりなんだがな」 クリストファーは、目をそらすことなく、睨みつけたまま答える。 「そうでしたね、貴方はいつでも狂っているんでした」 クリストファーの体は完全に女性でありながら、どこか少年のようでもあった。 いっそ完全にどちらかであれば良かったと思う。 いつもの暴力と変わらない、相手を傷つけるための一方的な蹂躙。 ただ、女だった事を後悔させるための。 ただ、黙っていた事を後悔させるためだけの。 自分は狂っているんだろうか、と思う。 狂っているつもりはない。 全くおかしい事は無い。 全てが合理的だ。 ただ、客観的な感想は異なるだろう、という事も理解できた。 狂っていると思われるなら、それでもいい。 彼女は、罰を受け入れた。 |