動乱の中にも生活は存在する。
それはメルンテーゼも例外ではない。
観光で糧を得ているものは、花が咲けば武器を置いて団子を売り、夏になれば城を放り出して海を開く。
 
一揆に参加を始めたグリゴリ達は、そんな観光にうつつを抜かしている余裕は無い。
余裕は無い、のだが、時間はある。
何しろマァムブに生命力を捧げるための戦闘を、コインは未だ望まない。
コイントスで裏が出なければ、マァムブの力を得る事も、マァムブに生命力を捧げる事もできない。
広い広い城内には、王の手の者がいくらでもいるという訳でもなく、また、食料や生活雑貨を得るためにはずっと攻城している訳にもいかない。
 
時間があるというのに、遊びに行くなと言うのも変な話ではある。
余暇は取れる時に取っておいた方が効率的だ。
グリゴリは同行者達を信頼していなかったし、同様に信頼されているとも思っていなかった。
ならば、不必要な不満を抱かせる利点は無い
むしろ、放っておけば適当に気晴らししてくれるのならありがたいくらいだ。
同行者の何人かは海に行く話をしていたが、グリゴリはそれを黙認していた。
 
かと言って、自分も海に遊びに行こう、という気分にもならない。
ラージンは海に接した土地ではないが、何年か前に義父に旅行に連れられて行って、見た事はある。
水に塩が混じっている事と、波が大きい事以外は湖とそう変わらない。
となれば、別に珍しいものでもない。
 
自室で武器の手入れでもしようと思っていたグリゴリだったが、最愛の息子であるエンブリオがすいっと近付き、無邪気に言い放った
 
『ねぇパパ!ぼく、うみっていうのみてみたい!!』
 
「………」
 
『…だめ?』
 
フョードルは人間の子供に比べるとずっと成長が早い。まだ生まれて半年と少ししか経っていないが、自分で考えて、自分で行動する事ができる。
かといって、まだまだ子供は子供だ。溜息を一つ吐いて、頭を掻きながら片手を腰に手を当てる。
 
「………仕方ないな」
 
『やったー!!』
 
「ただし、遊びに行くんじゃなくて、食料を調達しに行くんだからな」
 
『うん!わかった!!ぼくうきわっていうのほしい!!』
 
「………ちょうどいいサイズが見つかればな」
 
グリゴリはフョードルに甘かった。
そのエンブリオが望む事の全てを叶えたし、エンブリオもグリゴリが叶えられる事しか望まなかった。
十分に甘やかせるように、そういう風に造ったのだ。
最愛の母との間の最愛の息子に、不自由な思いをさせないために。
 
 
海で適当にフョードルを遊ばせ、海岸で釣り糸をたらし、それなりに釣れたかな、といった所で陽は陰り始めてきた。
遊び疲れたのか、フョードルはうとうとと不安定に浮かんでいる。
 
「…そろそろ帰るか?」
 
『まだあそぶ…』
 
「眠いんだろう? 海にはまた来たらいい」
 
『ん…』
 
釣り道具を片付け、帰路につく。
フョードルは名残惜しそうに夕陽を見つめる。
 
『ねぇパパ、おうごんきょうって、ゆうやけみたいなきんいろだとおもうよ』
 
「ん、なぜだ?」
 
『だって、はじめてマァムブをみたとき、めのいろがたいようみたいだっておもったもん』
 
「そうか…、そうかもしれないな」
 
波の音が響く。
久しぶりに、自分とフョードルだけの、穏やかな一日だったな、とグリゴリは思った。
 
 
 
 
******
 
 
 
 
しかし、その気持ちは数歩と歩かない所でゆるやかに崩れた。
先ほど自分がそうしていたように、夕陽をじっと、あるいはぼんやりと眺める、見知った竜の姿があった。
誰かが連れてきたのか、それとも自分でここに来たのか。
舌打ちを一つもらし、グリゴリはイースの方に歩みを向けた。
 
イースはしばらく夕陽に意識を奪われている様子だったが、ううん、と体を伸ばし、一息ついた所でこちらに気が付いたようだった。
それまでのゆったりと弛緩した様子から、若干高揚した素振りで座り直し、緩く尻尾を振る。
まるでこれでは犬だ、そう苦々しく思ってから、ふと、気が付く。


半分ほど海に浸かってしまった太陽を見て、独り言のように呟く。

「夕陽を見ていたな」

イースは夕陽を見ていた。
目の前のこれは、犬ではなく、幼い竜だ。
種族は関係無い。
まだ、幼く、落ち着きが無く、世界の全てが知らないもの、面白いもので溢れていると思っているような。
そんな、幼い竜のはずだ。
のんびりと夕暮れ時の水平線を眺めるような情緒が育つのは、知性を持った生き物がどのくらい歳を重ねてからの話だろうか。

「お前は、たまにイースじゃないな?」

竜は、どうとでも取れるような、ううう、という唸り声を上げた。

「俺がイースだと認識している竜は、 まだ挙動が幼い。 落ち着きが無いから、興味の対象はころころ変わる。だから一つのものに集中できない」

緩く振られていた尻尾は速度を落とす。まだ不自然とは言えない程度に。

「だが、時折明確な意志を持って、対象をじっと観察している時もある。その時注意すべき対象を正確に判断した上で、だ。まるで年齢が変わったか、頭の中身が変わったかみたいにな」

フョードルは、自主的に一人でじっと座って夕日を見つめるほどには大人ではない。
そして、イースがフョードルよりも精神的に成熟しているとも思えない。
仔竜の尻尾は完全に動きを止め、ぺたり、と白砂に横たわった。

「そうしたいなら好きにしたらいい
俺の知った事じゃない
だが―――」

しっかりと向き合う。
イースは簡単な言葉を理解する。
ならば、今ここにいるこの竜は、少なくともそれ以上は言葉を理解するはずであり、何らかの事情があってイースになりきる事ができるだけの知性を有するはずだ。
 
「手抜きをしているなら困る。
遊んでいていい時と、そうじゃない時の区別くらいは付くな?」
 
という事は、イース以上の能力を秘めているが、あえてセーブしている可能性がある。
竜は、じっとグリゴリを見返す。グリゴリも、黙って竜を見つめる。
グリゴリが痺れを切らすよりも幾分前に、竜はふと空を見上げ、ゆるやかに長く息を吐いた。


「‥看破されるとするなら、シルマリィ殿かカカ殿か。‥そして卿以外に はないだろうな、と思っていました」

イースとは明らかに違う、しっかりとした発音に、言葉遣い。
予感は確信に変わった。やはりな、と思いながらも腰に手を当て、弁明を待つ。

「獣の縁以外では一番気をつけていた んですけど、‥よもや筒抜けのご明察 とは。‥いい眼をお持ちなんですね」
 
予想よりもはるかに知性を感じる物言い。
これがイースの真似をして、仔竜のように振舞っていたのだろうか。
物好きな竜もいるもんだ、と思う。
 
「‥手を抜いてはいないですよ。‥手合せで数の不利を蒙らせたことはなかったと思うけれど」

ようやくの問への答え。

「ならあれがお前の実力で、それ以上 は無いという事か」

肯定するように、竜は見つめ返す。

「まぁいい、元々そう期待してた訳で もない」


イースの言葉をそのまま信じた訳ではなかった。
しかし、仮に別人の演技までしてその力を隠していたのなら、少し小突いた程度で改めるとも思えない。
だからといって、真実を述べているのなら、無いものを出せと責めても不毛だ。
仔竜と言っても、イースはその辺の冒険者に劣らない戦闘力を持つ。
問題が無い、と言えば無いのだ。 ただ、少しばかり楽ができる可能性が減っただけで。

「‥お察しの通り、"イース"とぼくは別のモノです。‥あれはヒトやモノとすれ違う必要がある」

「ヒトや、モノとすれ違う?」

思わず聞き返す。 意味が分からない。
イースは答えずに、すっと目を逸らす。
詳しく話す気は無いらしい。 自分から言っておいて説明が無いのも不親切だと思ったが、聞き出すほど興味がある訳でもない。
ヒトや、モノとすれ違うという事は、多くの経験を必要としているという事だろうか。
傍らの自分のエンブリオを見る。 フョードルは眠そうに漂っている。
フョードルも、成長するために多くの経験が必要だ。
この竜は、まるでイースの保護者みたいだな、などと思う。
 
「‥"イース"はあの通りです。ですから"ぼくが"貴方やコインの持ち主に叶う限りで尽力することで身を置くことが許されるなら、尽力する」
 
それだけの言葉が引き出せたのなら、とりあえずはいいだろう。
少なくとも、今現在、この状況下に置いて、この竜は自分に従う、と言っている。
ただの仔竜の方がいくらか気が楽だったな、などと思いながら返事を返そうとすると、竜は続けて言葉を紡いだ。
 

「或いは‥白青の銀、卿だけに誠を誓おうか?」
 
感情が急激に膨れ上がるのを感じた。
頭が怒りで満たされる。
血流が早くなる。
 
「バカバカしい!口先だけの誓いが何の得になる!」
 
思わず怒鳴り散らす。
この竜は、誓いが力を持っており、信頼できるものだと思っていて、それが相手にも通用すると思っている。
一度誓った思いは変わらないと、人の心は変わらないと信じている。
 
相手に何かを誓うという事は、相手に尽くすように見えて、一方的に相手に信頼を要求する行為だ。
信頼を求めていないのなら、口に出さずにただ行動に移せばいい。
それなら、ただの都合のいい駒でいられる。
誓いなどという言葉にして、精神的なものを絡めるから、相手は同じものを返そうとしてしまう。
 

グリゴリは同行者達を信頼していなかったし、同様に信頼されているとも思っていなかった。
グリゴリがこの世で信頼できるのは、自分が産み直した、自分を裏切らないように造ってあるものだけだ。
 
だが、その事をこの竜にぶつける事は、私は裏切られる事が怖いです、と宣言してしまう事になる気がして、グリゴリは続く言葉を飲み込んだ。
 
「お前が俺を都合がいいと思うなら、お前も俺に都合がいい対象であり続けろ。 それだけの簡単な話だ」
 

それだけなんとか絞り出し、足早にその場を去る。
エンブリオが、心配そうに側に寄る。
 
『パパ、おこってる?』
 
「…お前にじゃないから、心配するな」
 
『うん』
 
フョードルはグリゴリの上着のフードに潜り込み、しばらくすると寝息を立て始めた。
太陽はすっかり水平線の下に沈み、辺りは黄昏に包まれていた。
グリゴリは人のいる本拠地に帰る気になれず、少しだけ遠回りして帰る事にした。
 
 
 
 
******
 
 
 
 
陽が落ちてしまうと、辺りが暗闇に包まれるまでにそう時間はかからなかった。
暗くなっても、どこかでお祭り騒ぎをしているのだろう。 遠くに音楽が聞こえる。
特に目的もなく海沿いに歩いていたが、とうとう砂浜は終わり、岩場のような所にたどり着いてしまった。
岩場と言っても、歩くのにそこまで苦労はしなさそうだ。 グリゴリはそのまま歩みを止めずに進んだ。
 

なんとはなしに、子供の頃を思い出す。
グリゴリには二人の親友がいた。
明るい姉に、優しい弟の、男女の双子だった。
 
イペ族の集落に、あまり男児はいない。
イペ族は女子供だけの集落であり、男は13の歳になると、集落から出て行かなければならない。
どうせ出て行くのならと、幼いうちから養子や売りに出してしまう家庭も多く、また、再形成の能力を持つイペ族の子供は高く買い取られた。
買い取られた先でも、体に負担のかかる産み直しに支障の出ないようにと、粗末に扱われる事は少ない。
集落にいたとしても、同世代の少女とは極力接触を控えなければならない事になっており、ちょっとした会話すらいい顔をされない。
つまり、集落での居心地は良くない上に、外に出す事に抵抗のある環境ではないのだ。
 
グリゴリは、母であるオリガが手放す事を渋ったため、子供の頃をイペ族の集落で暮らした。
同世代の同性の子供はおらず、異性には接触しようにも避けられる。
そんなグリゴリに初めてできた友人が、外から来た、イペ族ではない双子だった。
 
姉弟はいろんな土地に行っていたし、イペ族も様々な土地を訪れた。
たまたま会う事もあったし、馬に乗れるようになれば、一人で遊びに行く事も、向こうから訪ねて来る事もあった。
グリゴリは、二人を家族のように思っていた。
何があっても自分は二人を裏切らないと思っていたし、何があっても、自分は裏切られないと確信していた。
 

それが幻想だと気が付いたのは、13の歳を目前に控えた日。
グリゴリが、親友を二人失った日。
 

少し強い風が、びゅう、と吹いて髪を揺らす。
顔を上げて、ふと、少し先に女が一人で立っている事に気が付く。
こんな暗い時間に、こんな人気の無い場所に、女が一人でいるなんて不用心もいい所だ。
少し脅かしてやろうかとも思ったが、他人に自分から関わる気が起こらず、そのまま立ち去ろうとする。
 
不意に、あたりが明るくなる。
顔を上げると、明るい月が、雲の切れ間から顔を出した所だった。
 
視線を戻すと、ちょうど先程の女を照らすように、月光が降り注いでいた。
























風になびく髪と、スカートを押さえる姿に、ここにいるはずのない、死んだはずの少女の名が口をついて出た。
 







クリス。
クリスティーナ。
死んでしまった親友。

その横顔は、その髪の色は、その面影は、確かに彼女のものだった。
 
女はその声に振り向くと、顔を強張らせ、足早にその場を去ろうとする。
その腕を、掴む。
 
「お前」
 
手に力がこもる。
折れそうなほどに細い、華奢な腕。
細い首、細い腰、細い足。
女の纏った華やかなサマードレスは、その緩やかに描く曲線を隠す役割は果たしていなかった。
 
「お前は、クリフだな」
 
グリゴリはクリストファーをクリスという愛称で呼ぶ事は無かったが、稀に、昔の呼び方をしてしまう事はあった。
クリスは、姉のクリスティーナ。 弟のクリストファーは、クリフ。

クリスティーナは生きていない。生きているのは、その、双子の弟の、クリストファー。
保身のために、実の姉を裏切った男。 自分の信頼を、裏切った男。
かつて、親友だった男。
男だったはずの、親友だったはずの。
 
「お前は、十五年も俺を欺いていたのか!!」
 
思い返せば、クリストファーは男にしては華奢すぎた。
身長はそこそこにあるものの、声もいつまでも少年のようだし、女のような顔をしている。
エルフという種族は、元々美しい外見をしている。
ハーフエルフであるクリストファーが優男である事に、疑問を抱いた事は無かった。
 
いや、あるいは成長した状態で、初対面であれば気が付いたかもしれない。
しかし、初めてクリストファーに会ったのは、まだお互いが六歳と四歳の時。
女々しい男だとは思っていた。
逆に、その思い込みが、クリストファーの女らしさを、全て女々しさと捉えてしまった。
 
「俺が領主の養子になって、お前がそれを忌々しく思うのは当然だ!だがな!」
 
腕を引いて、釣り上げるようにして顔を近づける。
グリゴリが領主の養子になった時に、屋敷に出入りするクリストファーに気が付いた時に。
義父に一つ、願い事をした。

"親父殿、あいつを俺にくださいよ"

義父は新しい息子の機嫌を取りたかった。 クリストファーの家は領主の機嫌を取りたかった。
グリゴリはそれから今に至るまで、ずっとクリストファーを苦しめる事ばかり行ってきた。
恨まれていても仕方がない。 しかし。
 
「お前はそれより前の、子供の頃から俺を騙していたのか!?
ずっと、何も気付かないボンクラだと影で笑っていたのか!?」
 
クリストファーはいつものように地面を見つめて、ただ、沈黙する。
後ろに撫で付けた前髪が、はらりと額にかかる。
その顔はいつもより女らしく見えて、憎いクリストファーではなく、親友のクリスティーナがじっと怒号に耐えているように見えてしまった。
 
「お前は、その程度の事も話せないくらい!俺を…信用していなかったのか…!」
 
既に裏切られた相手の事で、こんなに動揺する必要がどこにあるのだろう。

しかし、心のどこかで、クリストファーの裏切りは一時の心の迷いであって、本来は優しい男のままだと信じていたのかもしれない。
自分のクリストファーを苦しめる行為を受け入れるという事は、過去の事に罪悪感を感じていて、罰を受けているのだと。
そう、都合よく思っていたのかもしれない。

「俺だけが、お前の事を親友だと思って…信頼していたのか…」
 
その言葉に、クリストファーは小さく反応し、おずおずと、顔を上げる。
グリゴリとクリストファーの視線が絡む。


 
ふ、とグリゴリは笑った。
笑いが、込み上げてくる。
 
「ふ、ふふふふ、ははは、ははははは」
 
笑いがとめどなく溢れる。抑えようとしても、後から後から、ぼろぼろとこぼれるように。
 
「あははははははは!ははは、あはははははははは!!」
 
今までのクリストファーとの全ての事が滑稽に思える。
楽しかった事も、嬉しかった事も、許せなかった事も、悲しかった事も。
いくら笑っても、笑い足りない。
 
「なるほどな!保身のためにたった一人の片割れさえ殺すお前だ!元から誰一人信頼なんてしてない訳だ!!」
 
自分は相手にとって特別だと思ってしまっていた。そうだと信じていた。
そう勘違いするには、十分すぎる幼さで、十分すぎる年月を過ごしてしまった。

この女が自分に従うのは、罪の意識などではなく、身分のため。
この女が自分の信頼を裏切ったのは、自分だけが勝手に信頼していたため。
この女が性別すら自分に隠していたのは、自分を信頼していなかったため。
 
グリゴリはひとしきり笑った後、ぴたり、と止まった。
クリストファーの腕を掴んだまま、強引に海の方に駆け出す。
 
「ぁあぁぁああああぁあぁあああああああああああああああ!!!!」
 
振りかぶり、クリストファーの軽い体は宙に浮く。
そのまま、投げた自分でも驚くほど遠くに飛んだ。
闇の中に消えるように、クリストファーは海へ沈んだ。
 
 
『なっ、なに?どうしたの?』

フードの中で寝ていたエンブリオが起きてしまったらしい。 状況が把握できずに驚いている。
 
「何も無い、寝てろ」
 
『でっ、でも、いまのなんでもなくないよね?』
 
「なんでもない」
 
『でも』
 
「なんでもないって言ってるだろ!!」
 
びくり、とエンブリオが震える。
おずおずと尋ねる。
 
『パパ、おこってる…?』
 
「何回同じ事を言わせる気だ!! 何も無かったんだ!! 最初から何も!!」

フョードルは、ひっ、と、小さい声を漏らす。 

怒鳴ってしまった。 今まで一度も怒鳴った事なんてなかったのに。
最愛の息子は震えている。 その表面から、じわり、と液体が滲んだ。
 
『ふ…ぇぇ…うえええええええん、ふえええええええええええん』
 
ぽたり、ぽたりと透明な液体が垂れ落ちる。
馴染みのある匂いがする。 おそらくこれは羊水。
グリゴリは、フョードルが泣く事が出来るのを初めて知った。
 
『うええええええええええ、ひっ、ぅええええええええええええ』
 
何か優しい言葉の一つでもかけてやるべきなのだろう。
しかし、それを出来るような気持ちの余裕が無い。
父親の顔が出来ない。

自分一人の気持ちに向き合う事すらさせてくれないこのエンブリオに、苛立ちすら感じる。
それと同時に、最愛の息子をそう思ってしまう自分が悲しい。
 
「…帰るぞ」
 
ようやくそれだけ声をかけて、踵を返す。
数歩進んで、ちゃんと付いてきているか振り返ると、フョードルはその場から動いていなかった。
 
「帰るって言ったのが聞こえなかったのか!!」
 
そう言うと、泣きながら息子はついてきた。
 
辛い思いを一つもさせないように造ったはずなのに、自分の未熟さのせいで泣かせてしまった。
それなのに、なお、優しくする事が出来ない自分が憎い。
そうさせた、クリストファーが、憎い。
クリストファーを信じた、自分が憎い。

もう一度振り返り、今度はフョードルがちゃんと付いてきているのを確認すると、グリゴリは再び歩き出した。