暖炉の薪が爆ぜる音に、グリゴリのエンブリオは目覚めた。

マァムブの中にある、応接室のような少し広い部屋。
柔らかいクッションに埋もれて、エンブリオはいつの間にか眠ってしまっていた。
 
 
ふわぁ…

 周りの人間達がするように、あくびの真似事をしてみる。
特に意味は無い。ただ子供が大人の真似をするようなもの。
「よいしょ!」と声を出し、一度クッションに体を沈めてから飛び上がる。

部屋には誰もいない。
一人で遊ぶ気にもならず、廊下に出る。

食堂にならば誰かしらいるだろうと覗いてみるが、誰もいない。
厨房にも、書斎にも、書庫にも、浴場にも、工房にも。
地下にはメルンストゥーラを持つ誰かに付き添ってもらわなければ行く事はできない。
一人だけ置いてきぼりにされたような気がして、エンブリオの表面に、じわりと羊水が吹き出した。
 
 
…パパぁー!
カミユー!ペドロー!イースー!
 
名前を呼んで、ふと気が付く。
中庭をまだ見ていなかった。
 
 
イース!
イース!!イースー!!
 
中庭に飛び込み、周囲を見回す。
荒れ気味の中庭には誰もいない――ように思われたが、枯れた噴水の影から、ひょい、と小竜が顔を上げた。
 
 
ふょーどる?
 
 
イーーーースーーー!!
 
イースの胸に飛び込み、ふと、違和感に気が付く。
 
 
イース、なんだかおっきくなったね!
 
 
うん!おっきいのすき?

 
すきー!!

以前は大型犬ほどの大きさだったが、現在は小型の馬ほどある。
ひとしきり体毛に埋もれたり、飛びついたり、角を滑り降りたりした後に、エンブリオはふと思い出した。
 
 
そうだ!イースたいへんだよ!
マァムブにだれもいないの!

 
だれもいないの?

 
そう!
みーんな!いないの!

 
みんな?
みんな、おでかけしたよ!

 
おでかけ?

全員が出かけてしまったらしい。
寝ていたから置いていかれたのだろうか。

 
ひどいなぁ…、ぼくもいきたかったのに…。

自分とイース以外の全員が自分達を誘おうと思わかなったのだろうか。
そんな事を考えて、また、表面にじわりと液体が浮かぶ。

 
…そうだ、パパ!パパもいなかったの!
パパがぼくをおいていくわけないよ!
ねぇイース、どこのへやにもパパいなかったんだけど、どこにいるとおもう?

 
へや、いない、なら、おそと!

 
そっか!おそとみてなかった!

マァムブは昆虫のような外観をしているが、その上部には建築物のような物がそびえ立っている。
内部から上部に出る事は可能であり、洗濯物を干す時や、風に当たりたい時などにはそこに出る事もあった。

言われてみれば、グリゴリもよく外に出ていた。
出来るだけ人が来ないような場所で、エンブリオと日向ぼっこをする事もあったし、フライバイと内密な話をそこで行う事もあった。
 
 
フライバイせんせいは、おでかけしてるかなー

 
せんせい?

あっ、と小さく漏らして、失言に気が付く。
小声で、今のは誰にも言っちゃダメだよ、と付け加える。
竜は、るるぅ、と喉を鳴らした。

じゃあ行こう、とエンブリオは再び頭の上に乗り、大きくなった体に少しばかり慣れない様子で、イースが階段を駆け上がる。
マァムブの上に出ると、甲殻に当たりその足の爪が鳴る。
かちゃかちゃと音を立てて歩き、その音にエンブリオが楽しそうに笑う。

不意に、イースは立ち止まり、風に鼻をひくつかせた。
 
 
どうしたの?

 
ちのにおいがする

 
ち……?

血が何を指すのかは知っている。
グリゴリはよく狩りに行くし、敵に襲われればそれを殺す事もある。
もちろんグリゴリを含めた仲間が出血する事も珍しくない。
それが死に繋がる事も、エンブリオは理解していた。

 
ど、どっちから!?

 
あっち…、あっ

聞くが早いか、エンブリオはイースの頭から飛び降りて、その方向に向かう。
イースもすぐに駆け出し、横並びになる。
全力で走ればイースの方が早いだろうが、はやる気持ちにそこまでエンブリオの思考が及ばない。

行く手を建物に阻まれれば、イースが道を示す。
マァムブは巨大なエンブリオではあるが、広大という程でもない。
目的の場所に辿り着くのにそう時間はかからなかった。
 
 
 パパ!! .  

血溜まりの中に人間が倒れている。
見慣れた髪の色に、見慣れた服。うつ伏せでこそあったが、それは遠目にもグリゴリだと確認できた。
 
 
   イース!イース!!.
 パパを治して!!
   

イースはウンディーネと契約しており、ウンディーネには肉体の回復を促す力が備わっている。
フョードルの言葉に、イースはグリゴリに近づき、ウンディーネの力を行使する。
ゆるゆると、しかし確実に傷が塞がる。
フョードルはその様子に安堵しかけたが、釘を刺すようにイースが口を開く。
 
 
けが、なおしたよ
でも、ち、たりない…

 
そんな……

グリゴリの傷は非常に小さいものであり、傷自体よりも、出血によるダメージが大きいように見える。
失った血は元に戻す事は出来ない。
出血によるダメージも、ずたずたになった体組織も完全には癒えていないだろう。
 
 
どうしよう…
そうだ、ベッドにつれていかなくちゃ…

以前、クリストファーが怪我を負ってきた時の事を思い出す。
どちらにせよ、こんな寒い所に放り出しておく訳にはいかない。

 
イース!
パパをベッドまではこんで!

竜は一つ頷き、グリゴリの首元を咥えようと口を開く。
開いた口元から、ずらりと並んだ牙が見える。
その牙に対して、グリゴリの首はひどくやわらかいものに見え、エンブリオは思わず声を上げる。
 
 
   ま、まって!.     

 
…?
どうしたの?

静止の声に振り返った、友人であるはずの竜。
先程までは純粋に面白いと思っていたはずの、大きな体。
マァムブの甲殻に音を立てた爪。
そして、あの牙。

マァムブの力が彼に変異を与えた時の事を思い出す。
この友人は、人を傷付ける力を十分すぎる程に持っている。
その事が、急に恐ろしく感じる。
傷付いたグリゴリを、本当にイースに任せてもいいのだろうか。

だからといって、フョードルにはグリゴリを抱える腕も、運ぶ力も無い。
飾り紐は飾り以上の役割を持たず、宙を浮かぶ事が可能であっても、衣類すら支えられるとは言い難い。

ぼたり、と、エンブリオの表面から液体が流れ落ちた。
フョードルには、グリゴリを助ける術は何も無い。
今ここにいるのは、この鋭い牙と爪を持った獣だけであり、彼を頼らなければ、全く何もできない。
己の無力さに、エンブリオは涙した。
 
 
やだよ…パパ、しんじゃやだよ……

ぼたり、ぼたり。
イースが困惑したようにエンブリオを見つめる。
その視線すら、なぜ食わせてくれないのか、と言っているように思えてしまう。

ぼたぼたっ、ぼたっ。ぼたたっ。
まるで大粒の涙のように、外郭から中の羊水が滲み出し、滴り、地面に水溜りを作る。

 
ふょーどる?



ぼごり。


不意に、そんな音を立てて、エンブリオの内部の胎児の頭部に、大きなこぶのようなものが生える。


ぼごり、ぼごり。


追って、いくつもこぶが生える。頭以外にも、その小さな体全体に。


ぼごぼごぼごぼごっ、ぼごっ、ぼご、ぼごり。


胎児が、肥大化する。