暖炉の薪が爆ぜる音に、グリゴリのエンブリオは目覚めた。
マァムブの中にある、応接室のような少し広い部屋。 柔らかいクッションに埋もれて、エンブリオはいつの間にか眠ってしまっていた。
周りの人間達がするように、あくびの真似事をしてみる。 特に意味は無い。ただ子供が大人の真似をするようなもの。 「よいしょ!」と声を出し、一度クッションに体を沈めてから飛び上がる。 部屋には誰もいない。 一人で遊ぶ気にもならず、廊下に出る。 食堂にならば誰かしらいるだろうと覗いてみるが、誰もいない。 厨房にも、書斎にも、書庫にも、浴場にも、工房にも。 地下にはメルンストゥーラを持つ誰かに付き添ってもらわなければ行く事はできない。 一人だけ置いてきぼりにされたような気がして、エンブリオの表面に、じわりと羊水が吹き出した。
名前を呼んで、ふと気が付く。 中庭をまだ見ていなかった。
中庭に飛び込み、周囲を見回す。 荒れ気味の中庭には誰もいない――ように思われたが、枯れた噴水の影から、ひょい、と小竜が顔を上げた。
イースの胸に飛び込み、ふと、違和感に気が付く。
以前は大型犬ほどの大きさだったが、現在は小型の馬ほどある。 ひとしきり体毛に埋もれたり、飛びついたり、角を滑り降りたりした後に、エンブリオはふと思い出した。
全員が出かけてしまったらしい。 寝ていたから置いていかれたのだろうか。
自分とイース以外の全員が自分達を誘おうと思わかなったのだろうか。 そんな事を考えて、また、表面にじわりと液体が浮かぶ。
マァムブは昆虫のような外観をしているが、その上部には建築物のような物がそびえ立っている。 内部から上部に出る事は可能であり、洗濯物を干す時や、風に当たりたい時などにはそこに出る事もあった。 言われてみれば、グリゴリもよく外に出ていた。 出来るだけ人が来ないような場所で、エンブリオと日向ぼっこをする事もあったし、フライバイと内密な話をそこで行う事もあった。
あっ、と小さく漏らして、失言に気が付く。 小声で、今のは誰にも言っちゃダメだよ、と付け加える。 竜は、るるぅ、と喉を鳴らした。 じゃあ行こう、とエンブリオは再び頭の上に乗り、大きくなった体に少しばかり慣れない様子で、イースが階段を駆け上がる。 マァムブの上に出ると、甲殻に当たりその足の爪が鳴る。 かちゃかちゃと音を立てて歩き、その音にエンブリオが楽しそうに笑う。 不意に、イースは立ち止まり、風に鼻をひくつかせた。
血が何を指すのかは知っている。 グリゴリはよく狩りに行くし、敵に襲われればそれを殺す事もある。 もちろんグリゴリを含めた仲間が出血する事も珍しくない。 それが死に繋がる事も、エンブリオは理解していた。
聞くが早いか、エンブリオはイースの頭から飛び降りて、その方向に向かう。 イースもすぐに駆け出し、横並びになる。 全力で走ればイースの方が早いだろうが、はやる気持ちにそこまでエンブリオの思考が及ばない。 行く手を建物に阻まれれば、イースが道を示す。 マァムブは巨大なエンブリオではあるが、広大という程でもない。 目的の場所に辿り着くのにそう時間はかからなかった。
血溜まりの中に人間が倒れている。 見慣れた髪の色に、見慣れた服。うつ伏せでこそあったが、それは遠目にもグリゴリだと確認できた。
イースはウンディーネと契約しており、ウンディーネには肉体の回復を促す力が備わっている。 フョードルの言葉に、イースはグリゴリに近づき、ウンディーネの力を行使する。 ゆるゆると、しかし確実に傷が塞がる。 フョードルはその様子に安堵しかけたが、釘を刺すようにイースが口を開く。
グリゴリの傷は非常に小さいものであり、傷自体よりも、出血によるダメージが大きいように見える。 失った血は元に戻す事は出来ない。 出血によるダメージも、ずたずたになった体組織も完全には癒えていないだろう。
以前、クリストファーが怪我を負ってきた時の事を思い出す。 どちらにせよ、こんな寒い所に放り出しておく訳にはいかない。
竜は一つ頷き、グリゴリの首元を咥えようと口を開く。 開いた口元から、ずらりと並んだ牙が見える。 その牙に対して、グリゴリの首はひどくやわらかいものに見え、エンブリオは思わず声を上げる。
静止の声に振り返った、友人であるはずの竜。 先程までは純粋に面白いと思っていたはずの、大きな体。 マァムブの甲殻に音を立てた爪。 そして、あの牙。 マァムブの力が彼に変異を与えた時の事を思い出す。 この友人は、人を傷付ける力を十分すぎる程に持っている。 その事が、急に恐ろしく感じる。 傷付いたグリゴリを、本当にイースに任せてもいいのだろうか。 だからといって、フョードルにはグリゴリを抱える腕も、運ぶ力も無い。 飾り紐は飾り以上の役割を持たず、宙を浮かぶ事が可能であっても、衣類すら支えられるとは言い難い。 ぼたり、と、エンブリオの表面から液体が流れ落ちた。 フョードルには、グリゴリを助ける術は何も無い。 今ここにいるのは、この鋭い牙と爪を持った獣だけであり、彼を頼らなければ、全く何もできない。 己の無力さに、エンブリオは涙した。
ぼたり、ぼたり。 イースが困惑したようにエンブリオを見つめる。 その視線すら、なぜ食わせてくれないのか、と言っているように思えてしまう。 ぼたぼたっ、ぼたっ。ぼたたっ。 まるで大粒の涙のように、外郭から中の羊水が滲み出し、滴り、地面に水溜りを作る。
ぼごり。 不意に、そんな音を立てて、エンブリオの内部の胎児の頭部に、大きなこぶのようなものが生える。 ぼごり、ぼごり。 追って、いくつもこぶが生える。頭以外にも、その小さな体全体に。 ぼごぼごぼごぼごっ、ぼごっ、ぼご、ぼごり。 胎児が、肥大化する。
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