グリゴリは恋をしていた。

この世の全てが美しく見えるような、幸せな恋。


































ようやく手に入れたネクターを抱えて屋敷に戻ると、母と義父は死体になっていた。




メルンテーゼの北の地、ラージン領は様々な少数民族が暮らしている。
ラージン領は山地が非常に多いため、平地も少なく、中心地であるテロッゾの街の他にはあまり大きな集落は存在しない。
険しい山肌に住居を構える部族もいれば、山賊と遊牧で移動しながら生計を立てる者達もいる。



グリゴリは、山に住むイペ族の集落に生まれた。
イペ族は女子供のみで形成される一族であり、見た目は全く人間と変わらないが、特別な能力を持っている。

それは、望んだものを、より己が望むものに再形成する能力。
生意気なエンブリオを従順に、足の悪い馬を駿馬に、死にかけた老人を赤ん坊に。
イペ族は町や集落を訪れては、望む者にその能力を使い、対価を得て暮らしてきた。














グリゴリの母、オリガも、そうして収入を得ていた。
その縁から、領主であるイヴァン・マルティノヴィチ・ラージンに出会い、イヴァンは彼女に求婚した。
最初は金持ちの戯れだろうと相手にしなかったオリガだったが、イヴァンはなかなか引き下がらなかった。
オリガに夫は無く、当時13歳だったグリゴリも養子にし跡継ぎにすると約束され、彼女は結局、イヴァンの愛に答える事になった。













イヴァンのオリガへの愛は心からのものであったが、そこに打算が無かった訳ではない。
ラージン領は非常に治安が悪い。
人間であれば人間が対処すれば済む話だが、この地には暴走エンブリオが出現する。

暴走エンブリオは、倒す事ができたとしても契約を受け入れず、動けなくなるまで暴れ続ける。
しかし、イペ族であれば、暴走エンブリオを通常のエンブリオに再形成する事が可能だ。
真っ当な未契約エンブリオはすっかり減ってしまって、滅多に街には現れない。
しかし、イペ族を手元に置く事ができるのなら、暴走エンブリオをそのまま利用できる。









イペ族の再形成は、対象を一度体内に取り込んで行われるが、その方法は男女で異なる。
男性は対象を胃に収め、即時再形成する。
女性は対象を子宮に宿し、子を産むように十月十日かけて男性よりも複雑に、より大きく成長するものへ再形成する。
ただし、対象がエンブリオだった場合はネクターを摂取する必要がある。また、その再形成を行うのが女性だった場合、ひと月に一度はネクターを摂取する必要がある。












ネクターを摂取しないとどうなるか、という事は久しく忘れ去られ、ただ、ネクターを摂取しなけらばならない、という事だけ伝えられてきた。
それで何も問題は無かった。新しい王が独占するまで、ネクターはそう手に入りにくいものでもなかったから。

なぜ定期的にネクターが必要になるのか。
エンブリオは再形成により何度も生まれ変わるようなものだ。つまり、その度に契約が必要になる。
契約を更新できなければ、エンブリオは誰のものでもない。自らの意志で行動する。
そして、そのエンブリオが暴走エンブリオであった場合、狂った部分の再形成が終わっていなければ、また同じ事の繰り返しになる。


































グリゴリは恋をしていた。

この世の全てが美しく見えるような、幸せな恋。
































オリガを再形成する事は可能だったが、グリゴリはそれをしなかった。
自分の望む形に再形成したオリガは、本物のオリガではないから。

イヴァンは何も武器を手にしていなかった。
恐らく、オリガのすぐ側にいて、取るものも取らずに助けようとしたのだろう。
オリガを守ろうとして共に死した義父に、どろりとした嫉妬の感情を抱く。
だが、オリガは幸せだっただろう、愛する夫が命をかけて守ろうとしてくれたのだから。


叩き斬ったゴレムの泥の塊が、もぞり、と動く。
なめくじのように塊同士が蠢き、元の形に戻ろうとする。

グリゴリはオリガをそっと寝かせると、彼女の手を取り、その胸の上に置いた。
その顔を名残惜しそうに見つめた後、ゴレムに向き直り、無表情にまた斧を振り下ろす。
一つになりかけていた泥人形は再び泥の塊になり、またもぞもぞと動き出す。


オリガは再形成のためにエンブリオを子宮に宿していた。
そのゴレムが腹を破り出てきたために死んだのだろう。
イヴァンは見たところ、手足を折られた後に肉を引きちぎられたようだ。
どちらも痛みか出血によるショック死が原因に見える。
しかし、それだけの怪力を持つエンブリオでも、元が泥人形であるゴレムが羊水に長い事浸かっていたために、耐久力は非常にもろくなっている。


グリゴリは、オリガのために用意したネクターを一つ雑に噛み砕いて飲み込み、泥の塊を一つ拾い上げた。
逃げ出そうと蠢くそれは、じっとりと濡れて、手のひらを舌で愛撫されているような錯覚を覚える。
しばしその様子を眺めた後、そのまま泥の塊を口に含む。
返り血の鉄臭い味と、羊水の微かな甘い味と、粘土質の泥の感触が口中に広がる。
泥塊は舌に絡み、歯茎をなぞり、唾液に混ざり、溶け出し、ざらざらとした感覚と、微かに残る体温を伝える。
飲み下そうとすると、反射的に嘔吐感がせり上がってくるが、それを無視して強引に飲み下す。

つい先程までオリガの子宮の中にいて、つい先程オリガを殺した泥の塊。
それを食らうという事は、オリガの全てを手に入れたような気がして、不覚にも心が震えた。
グリゴリは新たに大きな泥の塊を手に取ると、それに食いつき、首をひねるようにして食いちぎる。
口の中に残った泥塊は飲み下すには少し大きすぎたが、それでも息苦しさと嘔吐感を共に強引に飲み込む。

残りの塊も口に放り込み、丸呑みした後、赤ん坊の形をした泥人形の手足を引きちぎり、元の形に戻れないよう、胴体部分から食らいつく。
狩りのために何日も餌を与えられていない猟犬のように、無我夢中で貪り食う。
大きい塊や、乱暴な切り口であるほど飲み込みにくかったが、咀嚼している余裕などは無い。繰り返し押し寄せる異物感と嘔吐感すら興奮に変わっていく気がする。
口に入る大きさにしなければならない事がまだるっこしい。飲み込む合間に息をする事すら煩わしい。









泥人形はたっぷりと羊水を含んでおり、それはオリガの体液であり、かつてグリゴリがいた場所に満ちていたものだ。
グリゴリは、オリガを食いちぎり、蹂躙した後、自分の中に受け入れているような錯覚を感じた。自分のものにしたい。めちゃくちゃに食い破りたい。そんな欲はあるが、オリガにそんな事はできない。彼女を愛している。
だが、これは泥人形。オリガを殺した憎いエンブリオ。

ひたすらに手と口を動かし、泥で出来た胎児を胃に流し込む。
徐々に大きくなる嘔吐感と闘いながら、グリゴリは最後の泥塊を、つっかえながら飲み下した。








そうして、ようやく一息つく。
自分の中に、オリガの胎児が入っていると思うと、じわりと妙な幸福感が滲み出してくる。
しかし長くは続かない。すぐに収めたものは逆流しだした。


「ぅぶっ…げぇっ…ぐえっ…!」

すこし白っぽく、生臭い液体を大量に吐き出す。
微かな甘み。これは、羊水。






「ぇあっ…ぅぶぁ…」

液体ではない何かがせり上がってくる。
オリガを受け入れ、その欲望を吐き出す事のできる喜びに支配される。

「……っぐぼっ、ごぼあぁっ!!ごほっ!がはっ!」

イペ族の男は、元になったものよりも小さなものしか再形成できない。
大量の羊水と共に生まれたのは、小さな透明の容器の中に浮かぶ胎児だった。





「よう」









「誕生日、おめでとう」